第27回慰霊巡拝の報告

  第27回東部ニューギニア慰霊巡拝は、16名が参加して、 2003年9月13日(土)から9月20日(土)の日程で行われ、全員無事帰国しました。

 以下に参加者の1人、白石省吾さんの手記を掲載します。

長野県ニューギニア会

 

 

     第27回現地慰霊巡拝に参加して

                                    白石 省吾

 思いがけない出会い

パプアニューギニアの首都ポートモレスビーに降り立ったのは、9月14日早朝だった。

とうとうニューギニアの地を踏んだ――私は少し興奮していた。父の終焉の地について、私は様々に想像して来た。しかし、熱帯のジャングルというイメージを越えることは出来なかった。

 私の父白石逸作は昭和20年9月15日、東部ニューギニアのウエワク近くで戦病死した。享年35歳。生還した戦友の話によると、飢えと病にさいなまれた挙句の死であった。終戦を知りながら、故郷に帰ることを断念した父は、どんな思いで死んだのだろうか。父の年齢を越えるころから、折にふれて、私は父のことを考えるようになった。父の終焉の場所に立ってみたいと考えた。しかし、個人でそこまで行くのは無理だろう。昨年(2002年)4月、ニューギニア航空が成田−モレスビー間の定期航路を開設したとき、心が動いたが、そのままになっていた。

 ところが、昨年8月、信濃毎日新聞で長野県ニューギニア会が現地慰霊を続けていることを知った。私は、中野市で開かれた「ニューギニア展」を見に行った。その縁で、今回の慰霊巡拝に加えてもらうことになったのだった。父は群馬県出身で長野県との直接のつながりはない。私は東京に住んでいる。だから、この会を知ったのは全くの偶然だった。

 

 *遺族の深い思い

今回の慰霊団は、会長の高野尚・潤子夫妻以下16人。ニューギニア会の前々会長・土

屋利喜太さんの代役で参加した息子の土屋耕太郎さんのほかは、みなさん遺族であった。巡拝の旅を続けているうちに、私は遺族たちの深い思いに触れることになった。

 2歳で父を失った妻と同行したというIさんは、慰霊祭の挨拶で言葉につまり涙を流した。Oさん夫妻は、戦死した村の若者たち29人の慰霊の札を寺からもらって来ていた。セピック流域で兄を失ったKさんは、小さな木の墓標を用意して来た。兄が働いて自分を学校にやってくれた、その思いが年とともに強くなったとKさんは語っていた。自分はラバウルから生還したけれど、同じころニューギニアにいた兄は死んでしまった。そう語ったのはMさんである。Mさんは復員後に兄の死を知ってショックを受けたという。Yさんは定年を機会にウエワクで戦死した父のことを調べ初め、今回夫婦で参加することにした。奥さんの父もまた戦死しているのだという。同じように夫婦で参加したTさんは、亡くなった母親から父はウエワクで戦死したと聞いていたが、所属した部隊がわからないのだと嘆いていた。

 遺族たちの思いは巡拝を続けていくうちに微妙に変化して行ったようだった。しかし、それについては後で述べることにする。

 

 ウエワクから始まった慰霊の旅

 9月15日、ポートモレスビーから国内便で私たちはウエワクに入った。前日の14日はハイランドの観光地ゴロカで、シンシンと呼ばれるお祭りを見た。顔に彩色し頭に羽飾りを付けたパプアの人たちが熱狂的に踊る。年に一回のお祭りである。祭りの熱狂に感染して、私もうきうきしていた。しかし、ウエワク空港に降り立ったとき、お祭り気分はもうなかった。この地で何万という兵士たちが死んだ。故国に帰れず骨となって土に埋もれている者たちは、どんな思いでいるのか。

 ウエワクは、ジャングルではない。舗装した道路が縦横に走り、広場ではサッカーの試合の準備をしているようだった。立派な教会もある。

 私たちは、迎えのバスでホテルに向った。丘の上に建つニューウエワクホテルは、川畑さんがオーナーである。人間魚雷「回天」の生き残りだという川畑さんは、ニューギニアが気に入って、20年ほど前から、このホテルを経営している。慰霊団はいつもここで、川畑さんの世話になっているという。最近は、慰霊団の訪問も少なくなってしまったと川畑さんは、ちょっと寂しそうであった。

 16日早朝、私たちは夜来の雨の中をトラックの荷台に乗って出発した。目的地はソナムである。ソナムはウエワク西方150キロくらいか、さらに西方にアイタペがある。昭和19年8月のアイタペ奪回作戦で、数万人の日本軍が敗走の挙句に死んだ。「口減らし作戦」とも言われたこの作戦は、第十八軍の最後の戦いであったが、あまりにも多くの犠牲を出した。兵たちは東南の山岳地帯に逃れたが、ウエワクに通じる道路も東に逃れる兵士たちの死の街道になっただろう。私たちは、その道をトラックの荷台に揺られながら西に向って走った。

 ソナムの集落で、私は現地慰霊祭を初めて経験した。海よりの広場に小さな地蔵さんを乗せた石造りの墓地がある。その両脇の木の墓標には、「坂東川作戦に斃れた諸霊に捧げる」「ソナム・アイタペ地区戦没者精霊供養塔」と書かれている。長野県ニューギニア会が建てたものだ。墓地の回りは石と潅木で囲んである。これは集落の人たちが世話をしているのだという。

 長野から持参した旗をめぐらせ祭壇を整え、護国神社の札やお神酒を供える。「海ゆかば」の曲に合わせて黙祷し、慰霊祭が始まった。集落の人々が見守る中で、私たちは線香を手向け、最後に「ふるさと」を合唱した。熱帯の太陽がじりじりと照りつける。みなさん、首に下げたタオルで汗を拭う。汗に涙も混じっていた。

 こんなふうにして、私たちは帰国までに5回慰霊祭を行った。17日のウエワク平和公園慰霊の森、山の中腹に立つコイキン観音。18日、マダンに移動して、海を望む丘ヤボブヒル、19日のハンサ湾に面したアワ部落。最後の慰霊地アワはマダン西方200キロあまり。遠出であった。

ウエワク平和公園慰霊の森での慰霊祭

 それぞれの慰霊祭で、遺族の代表が挨拶した。肉親を失った悲しみの底に無謀な戦争への怒りが込められていた。私も同感であった。なぜ、こんな遠い島まで来て、戦争をしたのか。制海権も制空権も失ったあとまで兵士を島に送り込んだ挙句、参謀本部は16万の将兵を見捨てた。そんな無残な戦争で死んだ者たちに何と言えばいいのか。

 遺族たちの言葉を聞きながら、私はそんなことを思っていた。しかし、「ふるさと」を合唱しながら私の心を満たしていったのは、悲しみであった。怒りや嘆きは、悲しみに変わって行った。死んで行った者たちのこころを素直に受け入れたい。私は、中学卒業以来歌わなかった「君が代」を声に出して歌った。

アレキセスハーヘン(マダン近郊)旧日本軍飛行場跡にて

 *子どもたちと老人

 慰霊団は、いくつかの小学校を訪問した。ノートやボールペン、サッカーボールを土産に持って行った。どこの学校も歓迎してくれた。初めに訪れたのはウエワクの近く、パッサムの小学校だった。パッサムは終戦間際、第51師団司令部が置かれたところだという。ウエワクから舗装道路が通じている。

パッサム小学校(ウエワク)訪問

 芝生の青々とした広いキャンパスに平屋建ての校舎があった。キリスト教団体などの援助もあるようで、なかなか立派な校舎だ。学校の責任者の出迎えを受けて、芝生の校庭に机を持ち出し、贈呈式を行った。生徒たちが私たちと対面した形で並ぶ。300人ほどもいたろうか。目が輝いて、引き締まった顔をしている。式の最後に、女先生の指揮で子どもたちはナショナルソング、国歌とい言っていいのだろう、声を揃えて国歌を歌った。私たちも、用意してあった譜面と歌詞を見ながら歌った。この国の息子たちよと呼びかける美しい歌だった。歌い終わると、子供たちは右手を上げて誓いの言葉を合唱した。

 ああこれは、と私は思った。恐らく西欧から輸入された仕草であろう。しかし、何と見事な仕草だろう。この子らによって、この国の未来は担われるのだ。私は、すこしばかり感傷的になっていたかもしれないが、そう思った。

 パプアニューギニアの現状と未来は明るいとは言えないだろう。統計などを見ると、通貨キナは米ドルに対して十年前の三分の一に下落している。円に対しても同じである。人口は500万人近くに増え、都市化と貨幣経済が農村部を浸食し始めた。今までのような自給自足生活は大きな変化を被るだろう。宗主国オーストラリアも援助を減らしているようだし、自立を促すような政策も阻害されているらしい。ウエワクで会ったJIKAの職員は、稲作指導に来たというのだが、ここでは水稲栽培は無理だという。雨季には冠水してしまうし、畑に水を引くという考えも浸透しないのだという。

 高地で栽培するコーヒー、ココア、低地でも栽培が始まったバニラなどは、輸出品としても外貨を稼ぐだろうと私は思ったが、それは微々たるものらしい。ブーゲンビル島の銅山の収益が国家財政に占める割合の高さを知ったのは、帰国してからだったが、地下資源に頼るだけでは本当の自立にはならないのではないか。

 それにしても、子どもたちの屈託のない明るさは、どうだろう。あの人なつこい笑顔は帰国後も私の目に残っている。

 その笑顔にオーバーラップするように、私の目に浮かんで来るのは、ハンサ湾のアワ部落で見た老村長の表情である。

アワ部落(ハンサ)での慰霊祭

 村長は杖にすがるようにして私たちを出迎えた。私たちが慰霊祭の準備をしている間、彼は粗末な腰掛に座っていた。子どもたちが持って来た発泡スチロールの箱のようなものだった。そこに腰掛けて、村長は私たちの作業を見守っていた。慰霊祭が始まると、老村長は杖にすがって立ち上がり、静かに私たちの祭りを見つめていた。それは、私たちと一緒に慰霊祭をしているように見えた、

 祭りを終えても、彼はじっと立ったままであった。彼の目は悲しみに満ちていた。彼もまた、あの戦争で過酷な体験をしたのではないだろうか。それとも、私たちの姿を見て、憐憫の情を覚えたのだろうか。あの、悲しみに満ちた目を、私は忘れられない。

 

 *帰国してから

 帰国しても、しばらくの間、私は慰霊巡拝の旅の中にいた。記録を作っているときに、釈迢空の歌を私は思い出した。彼折口信夫は養子の春洋を硫黄島で失った。息子の死を悼んで彼は次のように歌った。歌うというよりも、それは悲嘆の叫びであった。

 

    たたかひに果てにし人を かへせとぞ

    我はよばむとす。大海にむきて

    思ひつつ還りか行かむ。思ひつつ来し

    南の島の荒磯を

 

 私もまた、思いつつ行き、思いつつ帰ったのであった。

 そしてまた、彼の次の詩も、私の心に沁みたのだった。

 

    わが子は つひに還らず――

    わが子を いつとか待たむ――。  

    わが子の果てにし 島に、

      しづかなる月日経行きて、

      そのあとも今は 消ゆらむ――。 

 

 月日が経って、戦いの傷跡も消えてゆく。彼は時間によって息子の死が浄化されることを願ったのだろう。私もそう願う。しかし、それが意図的な忘却であれば、時間も浄化することは出来まい。ニューギニアから帰って私は今、強くそう感じている。

以上

 

(参考)                                 ニューギニア会事務局

  今年度の旅程の概要は以下のとおりです。

         出発  9月13日(土) 成田空港集合

                  21:20 ニューギニア航空にて成田空港を出発、機中泊

              9月14日(日) ポートモレスビー経由 ゴロカへ

                        ゴロカショー見学

                        ポートモレスビーに戻り 泊まり

              9月15日(月) ポートモレスビー発ウエワクへ  ウエワク泊

              9月16日(火) ウエワクにて戦跡訪問・学校訪問  ウエワク泊

              9月17日(水) 方面別(ソナム、坂東川、山南ほか)戦跡訪問  ウエワク泊

              9月18日(木) ウエワク発マダンへ マダン地区戦跡訪問  マダン泊

              9月19日(金) 方面別(ハンサ、その他希望地)戦跡訪問  マダン泊

         帰国  9月20日(土) マダン出発 ポートモレスビー経由 帰国の途へ

                   19:55 ニューギニア航空にて成田空港に到着

以上  

 

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