第25回パプアニューギニア慰霊巡拝
第25回ニューギニア慰霊巡拝は、15名の会員が参加して9月初めに予定通り行なわれました。詳細な報告を、参加した竹村会員の報告でお知らせします。
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写真・レポート 会員 竹村 淳
長野県ニューギニア会では、毎年恒例となっている慰霊巡拝旅行も回を重ねて今年は25回を数えるに至った。
今年は会員15名に東急観光からの添乗員1名の総勢16名、神谷会長を団長として9月2日から9日までの8日間の日程で行なわれた。
9時30分に信州中野の高野さんのところでプレゼントのボール箱を積み込んだバスは、長野駅東口〜麻績IC〜豊科IC…と次々に団員をピックアップしながら快晴の信濃路をひた走り、17時30分関西空港到着、21時30分発のエア・ニューギニ直行便で日本を後にした。
パプアニューギニア到着 9月3日
翌朝5時過ぎ首都ポートモレスビー国際空港到着、南国調の壁の画も懐かしく(もっとも初めての団員には珍しく…)入国手続き。
第一目的地ラバウルへの国内線の出発まで時間があるので、市内の日本料理店で朝食と小憩。
ラバウルまでは、国内線で2時間足らず、トクア空港到着。
「ラバウル」
ラバウルは、ニューギニア本島から海を隔てて北東部にあるニュー・ブリテン島の北端にあり、古くからプランテーションが開けコプラ(椰子油)農園がある。
第一次大戦まではドイツ領の首都で近代的な都市計画の街並みが建設されていた。その後オーストラリアの行政中心地を経て、1942年日本軍が進出、ニューギニア本島への戦略根拠地となった。
戦後、1994年(7年前の平成6年)の9月19日、街の周囲にある火山群が噴火、市内は大きな被害を受け人々の多くは南東30キロのココボ地区へ移動した。
この大噴火の直前に第18回慰霊巡拝団が訪問しており、わずかの差で難を逃れられたのも何かの加護があったのかもしれない。
「ラバウル平和記念碑での法要」 JAPANESE
WAR MEMORIAL
さて、最初の慰霊法要は「ラバウル平和記念碑」でおこなわれた。
ここは、1980年に戦没の霊を弔い悲劇を繰り返さないことを念じて、日本政府や戦友会が地元の人達との協力によって建立したものである。
丘の中腹までの道は周りの崖も崩れかけているが、平和記念碑は火山灰から掘り出されきれいに整備されていた。
神谷団長の当時の戦況説明も自らの体験があるだけに詳細なものであり、また、今回は飯田の観音寺の橘住職さんが同行しているため切々たる読経の声も一段と胸に迫るものがあった。
そして、「ラバウル小唄」もいつもと違って悲しく歌った団員一同である。
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ラバウル平和記念碑での慰霊祭 | 当時の戦況説明をする神谷団長 |
「爆撃機の残骸」
ラバウル空港跡(日本軍占領時代は東飛行場と呼ばれていた)に近く、ヤシ林の奥に爆撃機の残骸が残っている。陸軍九七式重爆撃機と思われるが、ほとんど火山灰をかぶり埋もれかかっている。この場所への表示も見当たらず知っている人も少なくなってきたそうである。
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ラバウル東飛行場跡 | 日本軍爆撃機の残骸 | トーチカの傍らの高射機関砲 |
しかし、この季節には訪れる日本人も多くなるせいか、数家族の人たちが手製の首飾りなどお土産の品を並べており、その周りには大勢の子供たちが居て、カメラを向けると嬉しそうに集まってきてくれた。
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ラバウルの子供達 |
「ホテル前の爆弾」
ホテルから道路を渡った向かい側の広場には、赤錆びた不発弾が数個無造作に積まれている。
火山灰の後始末をしていたとき掘り出されたものかと思われる。
「火山観測所の丘の上で」
小高いところにある火山観測所からラバウルの町と火山を一望できる。
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火山観測所にて筆者 |
火山観測所からラバウルの町を望む |
「ラバウルのマーケット」
噴火前には、ラバウルのマーケットはPNGでも規模が大きく有名だったそうである。
バナナ、パイナップル、マンゴーなどのトロピカルフルーツ、落花生や数種類のイモ類(日本と同じサツマイモもある)、さらに蜜柑の類、おなじみのブアイまで、入れる籠も椰子の葉で編んで公害なし…というところ。
「大発洞窟」 JAPANESE
BARGE TUNNEL
ラバウルの街からココボ街道を南下、カラビア湾沿いに日本軍の通称「大発」(大型発動機艇)が格納された洞窟がある。
空襲時の避難用の洞窟で大発は現在も5隻一列に並んでいるが、洞窟の奥からはコウモリがばたばたと飛び出して我々を驚かせる。中は真っ暗で2隻目から奥は懐中電灯が無いと入れない。
それにしても、この硬い岩山に大きな洞窟を掘るのは大変なことであり、また、海岸から約200メートルも線路の上の船を引っ張り上げる苦労も並大抵のことではなかったと当時が偲ばれる場所である。
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大発洞窟入り口 | 洞窟内の大発の残骸 | 近くのお土産やさんの子供達 |
「ココポ博物館(戦争記念館)」 KOKOPO
MUSEUM
トクア空港までのココポ街道を行くと、フェンス内の芝生一面に兵器の残骸が置かれている博物館で、正式名称は「東ニューブリテン歴史文化博物館」。
第二次大戦で使われた戦車、戦闘機、魚雷、大砲などで、ほとんどが日本軍の持ち込んだ戦争の遺品であるが、野ざらしになっているのがなんとも痛ましく感じられる。
ゼロ戦の主翼の一部も飾られているが、日の丸の赤が目に痛い。
日本軍陸海司令官(今村均、草鹿任一両将軍)署名の降伏調印書も飾られている。
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ココポ博物館(1) | ココポ博物館(2) | ココポ博物館(3) |
マダンへ (9月4日午後)
「マダン」
ラバウルの空港では、現地旅行者の人たちが「送ることば」をフルコーラス、それも全部日本語で歌って我々を見送ってくれた。
途中ホスキンスとラエにも各駅停車?しながら2時間50分ほどかかってマダンに到着した。
マダンは小さな岬にあり、入り江や池が多く周辺にはたくさんの小さな島が点在した美しい町である。オーストラリアからの観光客も多くダイビング・ツアーやセピック河クルーズなどバカンスを楽しみに来ている。
特にダイビング・エリアはPNGを代表するとともに世界有数のところで、ホテルの設備なども優れており、今回も日本人の若いカップルの姿を見かけることがあった。
慰霊団一行の定宿となっている“マダン・リゾート・ホテル”は岬の先端にあって景色のよい場所にあり、レストランはセピック・アートの柱に支えられたトラディショナルな造りで海に面し潮風も心地よい。
明日の訪問先について打ち合わせ、神谷団長は戦時中世話になったことのあるカルカル島に旧知を訪ねることになり、この方面に4名が、残りの12名はハンサ方面へ向うことになった。
「カルカル島方面」 (省略)
「ハンサ・アワ部落墓標前慰霊法要」
薄暗いうちに朝食を済ませて7時に小型バスで出発、以前よりは少しばかり舗装がよくなってきている道路を突っ走って4時間半、昼前にアワ部落到着。
バスを降りた途端ひとりの男が不自由な足を引きずりながら駆け寄ってきた。第22回(平成10年)の慰霊法要のときに車椅子を進呈した身障者の男性で、嬉しかったときのことをいつまでも憶えていてくれる。
しかし、何でバスの着くところに居たのだろう。今日我々が訪問することは誰も知らない筈なのに…。
酋長の家に保管してくれてある卒塔婆を大木の根元に並べ、部落の若者の手を借りてロープを張り旗も吊るして、読経、焼香の法要を滞りなく進行、大勢集まった子供たちとも記念撮影、部落の人たちと交流のひと時を過ごす。
最後は部落の全員、犬までが見送ってくれる友好的な部落である。
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ハンサ・アワワ部落での慰霊法要 | 現地の子供たちと一緒に記念撮影 |
「ハンサからの帰り道」
戦時中日本軍の将兵が“ハンサ富士”と呼んで故郷への懐旧の想いをつのらせたという「マナム島」のよく見える海岸で小休止、遅くなった昼飯の弁当をひろげた。
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ハンサ富士 |
かつてマダンからウエワクへの転進で多くの日本兵が傷つきながら歩いたであろうこの海岸で、一同黙々と小さなサンゴを拾っていた。
それにしても、いつも思うことだがハンサは遠い。距離からすると次の目的地のウエワクからの方が近いはずだが、途中のセピック河、ラム河の大湿地帯が陸路を阻み、兵隊さんたちの苦労を50数年たった今も同じように我々に求める自然の厳しさである。
「ヤボブヒル記念碑前の慰霊法要」
海を見下ろす丘の上に日本軍慰霊のヤボブヒル記念碑があり、毎回ここで法要を行なっている。
この付近には当時病院があり、そこに強力な米軍が上陸、瀕死状態の日本軍は決定的な打撃を受けたところでもある。
いまは何もなかったように平和そのものの部落で、記念碑を覆うように立っている大木には、いつもこの時季にはピンクの花が咲いている。
ちなみにこのPNGのあちこちで見られる大木は“ブルブル”と呼ばれていた。
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ヤボブヒルでの慰霊法要 | 見守る現地の人たち |
「ビルビル村」
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ヤボブ村から少し南に走ったところにビルビル村があり、ここではシンシン(PNG独特の民族ダンス)が見られる。
村は比較的大きく、観光で訪れる旅行者も多いようで何となく豊かな感じのする村である。そのせいか、現地のガイドによれば「この辺で一番治安のよいところです」とのことである。
お土産には素朴な素焼きの壷が有名で小さいものは3キナ(120〜130円)くらいから売っているが、日本まで無事に持って帰れるかどうか…を考えるとどうも手が出ない。
「日本軍飛行場跡」
マダンの街からノース・コースト・ハイウェイを20キロほど走り、車を降りて草原を抜けた先に双発の爆撃機の残骸が残っている。
半世紀以上の年月が経ち、草が絡み付いてはいるもののほぼ完全な形のままで残っている。
つぶれたタイヤはまだゴムの感触を残し必死に生きようとしているその姿に兵器にもまた生命があることを感じ、ふと、“草むす屍”の言葉が頭の中を通り過ぎ心の中で手を合わせる。
「アレキシスハーフェン」
かつてドイツ領だった頃の名残で典型的なドイツ語読みの名の村であり、風光明媚な公園が整備されている。
しかし、静かな池の水際には日本軍の大発の残骸が水面に顔を出していて、ここにも「そのまま」が残っている。
「アムロン」
戦時中第18軍安達司令官の宿舎があり、別名“ナガタミッション”と呼ばれマダンの港が一望できる絶好のロケーションである。
現在は個人の家が建ち家人も居るが敷地内に自由に入ることができ、柵も無ければ番人も居ない、このおおらかさが嬉しい場所である。
「サイチョウ」
現地では“ココモ”と呼ばれるサイチョウがホテルの庭で放し飼いになっている。カップルの2羽がよちよち歩きをしながら、大きなくちばしで靴の紐を解こうといたずら、可愛い人気者になっている。
ウエワクへ (9月6日午後)
「ウエワク」
今回の旅行最後の目的地ウエワクまではマダンから40分ほどで、あの4時間半かかったハンサもひとまたぎで到着、改めて陸路が大変なことを痛感する。
小さなウエワク空港に降り立つと赤道直下南緯4度、「はるばる来たなあ…」という気がしてくる。
ウエワクはマダンに劣らない素晴らしい海と、魅惑に満ちたジャングル地帯も近い街であるが、観光に関しては未開発で個人旅行での行動は限られた範囲でしかできない場所である。
ここは、中国から転戦した日本軍の多くが最初に上陸した場所であり、また、第18軍の組織立った行動の最後の拠点であり、アレキサンダー山脈に続く山南方面は武器・食料も尽きた日本軍が徹底抗戦をする中で終戦を迎えたところでもある。
マダンと比べて、粗末…といってもいいだろう、ニュー・ウエワクホテルのお湯の出ないシャワーを浴びていて、ふと、何か懐かしいものを感じてしまうのはやはり慰霊の旅のせいだろうか?
「ウエワク平和公園慰霊の森での法要」
「ニューギニア戦没者の碑」として日本政府(PNG政府協力)が1981年(昭和56年)に建立したもので、今回は奇しくも20年目の節目での訪問慰霊となったわけである。
先年少し壊れかけていた屋根も何とか修理してくれてあったが、我々もポート・モレスビーの日本大使館を訪問したとき大使にお願いしていた修理である。
ここでの法要がPNGでの慰霊のメイン・イベントの感じがするところである。ここでは、遺族を代表して竹村が慰霊の言葉を捧げた。
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ウエワク平和公園での慰霊法要 | 慰霊巡拝団一行の記念撮影 |
「コイキン マリック 観音前の法要」
ウエワク郊外コイキン地区マリックの山頂に長野県ニューギニア会によって建てられた観音像がある。
道路から70メートルほど急な坂道を登ったところで、観音像ははるか北の日本に向って建てられ、周辺は地元の酋長一家によって清掃されて綺麗に維持されている。
椰子の木の間にロープを張って旗を吊るし祭壇を整え法要。
いつも20〜30人の人たちが集まってくるが今回は数人のみ。みんな山で仕事をしている時間だったのかも…。
「ミッション・ヒル」
かつて20師団司令部があった台地で、ウエワク湾岸一帯の展望がよいので“洋展台”と呼ばれた高台のうえに“慰霊碑”と刻まれた大きな石の碑がある。
いつも立ち寄る場所であるが、今回行ったときにこの慰霊碑を二人の少年がバケツの水で洗ってくれているのに出会った。水といっても100メートルも歩かなければ汲めないはずで、我々が来るのを知っていたわけでなく、プレゼントをねだるわけでなく、どうしてこんな子供が居るのか声が出なかった。
そばに教会があるのでこのような子供がいるのだろうか?
それにしても、日本の子供たちはほとんど関心を示さない戦没者の慰霊碑を、異国の子供が掃除をしていてくれるとは、なんとも複雑な気持ちである。
「高射砲陣地跡」
洋展台台地から少し下ったところから小道を入っていくと高射砲陣地があり斜面には高射砲が7門ほどブッシュの中から空をにらんでいる。
3年前、そして、2年前、ここでジェベリー、メアリーという二人の姉妹と顔見知りになり、今回もお土産を持って来たのだが姿を見かけずがっかり。
聞けばこの辺りは最近治安が悪いとか、このところここの戦跡を訪れる人が少ないせいかもしれない。
我々も今日は非番の警官にガードの同行をお願いして気をつけている一日である。
このお巡りさんにはカモフラカラーの制服を着てもらったが、彼の履いている革靴は爪先と甲のところを透明のビニールテープでぐるぐる巻きにして剥がれるのを止めてあり、この国のつましさの一端を見たような気がした。
「ブランデー高校」
ブランデー高校の校庭にはウエワク防空部隊の大きな照空灯が残されており、さらに飛行機のプロペラや機関銃なども置かれている。
それらは兵器の残骸というよりはいまや校庭のオブジェとなっている感じである。
「学校訪問」
長野県ニューギニア会の慰霊旅行では、法要とともに学校訪問も重要な行事のひとつとなっている。
今回も学用品を精一杯持参、その他のプレゼントを合わせると、団員全員の荷物と同じくらいのボリュームがあり飛行機で運ぶのは決して楽なことではない。
学校訪問@ モニエル(MONGNIOL)スクール
学校訪問A パッサム(PASSAM)スクール
学校訪問B ソナム村の学校
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(上の写真はパッサムスクールでの贈呈式)
いつも精一杯紙類を用意してくるが、今回ソナム村の学校で先生に「学用品の中で特に欲しいものは何ですか?何が一番足りませんか?」と訊ねたところ『ノートと紙!!』との答え。「やっぱり…重くても持ってきてやりたい」と改めて痛感した次第。
「ウエワクの風景」
ホテルへの帰り道に美しい風景が見られた。
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ホテルへの帰路途中の海岸風景 | ウエワクの夕日 |
一部の団員は坂東川方面の慰霊のため別行動となった一日である。
「ソナム部落墓標前での法要」
ソナム部落へはウエワクから橋の無い川を渡って3時間ほど、さっき学校訪問時に降った雨で帰り道を心配しながらの法要となった。
この部落はウエワクのホテル・オーナー川畑さんの奥さんの実家があるところでたいへん友好的である。
ここの墓標の後ろ側には、日本軍将兵の遺品で、穴のあいた水筒、ひしゃげた飯盒、錆びた銃身などが古い卒塔婆や墓標などと一緒に積まれているが、子供たちのいたずらも無く、戦後50数年経っても綺麗に維持されていることに驚くとともに、PNGの人たちの日本人に対する好意が感じられて嬉しい。
「日本軍がこの地区に入ってきたときには、すべてを失っていて壊滅的な状態だった…」と神谷団長の詳細な説明が行なわれた。
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ソナム部落墓標前での慰霊法要 | 墓標の後ろに置かれている遺品 |
大勢集まってきた子供たちに持参したお土産をプレゼント。
「ソナムからの帰り道」
幸いさっきの雨による増水もたいしたことなく、再び橋の無い川、そして石だらけの河床を走り抜け、途中で坂東川方面への別行動隊が乗ったランクルと合同して東(ウエワクの方向)へ向う。
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ソナムからの帰路途中の民家 | ブーツ飛行場跡 |
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ソナム往復の”バス” | 坂東川方面往復のランクル |
「小さな慰霊碑」
ボイキン村付近で道路から少し入ったところに小さな慰霊碑が立っている。碑の根元には日本兵の水筒が、上部には赤錆びた鉄かぶとが二つかぶせてある。
予定にはなかったが訪れる人も少ない場所なので、手持ちのタバコなどを供えて一同手を合わせる。
アイタペ作戦のために西進した41師団が歩いたこのウエワクからの道は、“白骨街道”とまで言われた凄惨な死の道筋でもあった。
「さようなら、ウエワク」
最後の日、ウエワク出発は朝早く5時にホテルを発ち空港に向う。
空港は停電中で真っ暗、コンピュータも動かず搭乗券は手書きで処理をする。
「ポート・モレスビー」
ウエワクから2時間ほどでポート・モレスビーに到着、午後の出発便までの時間に国会議事堂などを見学、全国の芸術家が集まって1984年に完成した議事堂だが、正面のモザイクが素晴らしい。
あいにく日曜日なので内部は入れなかったが、先年見ることができた蝶のコレクションは素晴らしいものだった。
最後のお土産はいつも行く“PNGアート・センター”。照明も無く中は暗くて品定めがしにくいが、デパートやお土産店の無いニューギニアでは便利な場所となっている。お勘定のレシートには消費税10%が加算されていた。
「帰国」
POM発午後2時10分、一路北に向かい午後8時関西空港到着。
入国・通関後、新幹線で帰る人、そして、長野組は迎えのバスに乗り込む。
往路と同じく各所で降りながら、日付は10日に変わり全員無事帰宅した。
我々の帰国翌日(10日)は台風5号の接近で大荒れとなり、さらに、11日にはアメリカでの同時多発テロで騒然となり、今回の慰霊旅行も何かタイミングよく進行できたことに全員感謝したものである。
付記:
従来、慰霊旅行シーズンの8〜9月の飛行便は関西空港からのものがほとんどでしたが、ニューギニア航空では来年から成田空港出発の直行便を定期便として通期運行を計画中とか、そうなるとPNGへの旅も今までより大分楽になることでしょう。
長野県ニューギニア会としては、戦友・遺族関係者だけでなく、この国に興味を持つすべての人たちを含めての旅行計画を作っていきたいので、関心のある方々のご照会を待っています。
@Copyright 長野県ニューギニア会 2001