第3回西部ニューギニア慰霊巡拝の報告

 

 2004年6月26日(土)から7月4日(日)にかけて行われた、西部ニューギニア慰霊巡拝の様子を以下に記す。

 今回の慰霊巡拝は、長野県ニューギニア会主催で、巡拝団の団長は高野会長、団員8名であった。全体の案内人はNPO法人太平洋戦史館の岩淵さん、現地案内人は現地のジョコさんが勤めてくださった。

 

第1日  6月26日(土)         出発

        11:00  成田発   ガルーダ・インドネシア航空にてバリ島へ  17:20 デンパサール着

 

第2日    6月27日(日)         ジャヤプラ到着

      02:30  デンパサール発  ガルーダ・インドネシア航空にてジャヤプラへ   08:40 ジャヤプラ着

ジャヤプラ到着 ジャヤプラ空港ビル

 センタニ湖畔の空港からジャヤプラ市中心街のホテルに移動して昼食をとった後、慰霊巡拝に出発。

途中の丘(大発峠)から見た美しい湾の一部(天の橋立)の景色。

  「南海で六十年」父も通りし丘に立つ (丸山尊人)

 

 最初は、アベパンタイ・コタバル海岸の日本政府建立の慰霊碑前で慰霊祭を行った。

アベパンダイ・コタバル海岸の碑にて慰霊祭 慰霊祭(同左)

  ここで、碑の前に日本から携えた花や供物を供え、お父さんがこの地で戦死した方々を中心にして、慰霊祭を行った。周りには現地のこどもや大人が大勢集まってきて、静かに見守ってくれた。

     青い海父も休むやヤシ林 (丸山タ)

     砂浜や父戦ひし暑い浜  (丸山タ)

     トンボ舞ふ父の碑の前去り難し(高下)

 

 次に、慰霊碑のすぐ先の船着場からボートでフンボルト湾内を北上し、ジャヤプラ港先の洞窟で最近発見された戦跡に向かう。

コタバル海岸からボートで北上 洞窟はこのすぐ上奥にあった

その洞窟は、海岸からすぐ20−30メートル上にあった。洞窟といっても深さわずか2−3メートルの自然の崖の窪みである。

洞窟内に集められた遺骨 散乱する遺骨

そこにバラバラになった10体前後と思われる遺骨が散乱していた。

  君のため死にしを遺体炎天に (高下)

  兵たちの骨洞窟に六十年  (高下)

  洞窟に取り残されし命見る  (丸山ヒデ子)

  訪ぬれば我かく生けり兵の声 (荒井)

 

一同無言で合掌し、洞窟を後にした。

  兵の骨山に残して島離る   (高下)

 

夜はセンタニ湖近くのホテル、センタニ・インダーで宿泊。

  ホーランジャ父の御胸に安眠す (高下)

 

第3日    6月28日(月)         アルソー慰霊巡拝

 終日、小型ワゴン車で、アルソー方面の巡拝を行った。

 はじめにアルソー警察署を表敬訪問、土産にサッカーボールなどを贈った。

アルソー警察署を表敬訪問 アルソー西南部の地図 中央にSOWYO, YOSKOの地名が見える

 警察署の壁にアルソー地区の手書きの地図が貼ってあり、ここに前回の訪問で見つけたソーヨ(SOWYO)、ヨシコ(YOSKO)の地名が再確認できた。

 ソーヨはアルソーの西南方で地図上では近いが、陸路は遠い。徒歩3日だという。今回はアルソー西方のクイミ(KWIMI)まで行き、道路わきの大木の下で簡素な慰霊祭を行った。

大木の根元に俄か作りの祭壇を設けて拝礼 現地の警察官も礼拝してくれた

  今回も、アルソー地区の大酋長を表敬訪問した。

アルソー地区の大酋長を表敬訪問 家族の皆さんも歓迎してくれた

その後、南方へ30分ほど走ってタミ河にかかる橋まで行き、ソーヨに続く陸路の先に思いを馳せ、帰路に着いた。

 

第4日    6月29日(火)         アルモパ慰霊巡拝

 アルモパはジャヤプラからサルミまでの行程のほぼ中間に位置する海岸の村である。

 陸路は道が悪く今回は海路を選んだとのことであった。日帰りを確実にするため出発は早く、朝3時30分に出発してデムタまで車で行き、ここから大型のボートに乗ってアルモパに向かった。デムタ出発は7時40分。水面をすべるように行くボートからの眺めは飽きることがなかった。

   流木に翼休めり親子鳥   (岩淵)

 ボートは予定以上の乗客を乗せたためか、思ったほどのスピードが出ず、予定時間を越えて12時10分に到着した。

デムタから大型ボートで4時間30分 アルモパの海岸に到着

 ここでも村の広場の大木の下で簡素な慰霊祭を行った。ここには、日本人が訪れたのは戦後初とのことであった。大勢の村人が珍客を出迎え、現地案内人のジョコさんの説明に聞き入り、静かに慰霊祭を見守ってくれた。

   慰霊祭驚き眼アルモパの地   (高野)

アルモパでの慰霊祭 現地案内のジョコさんの説明に聞き入るアルモパの村人たち

 昼食もそこそこに、1時間足らずの滞在で午後1時に出発、デムタに午後5時に到着した。デムタからの帰路の途中で、偶然にも蛍の樹(*)を目にすることができた。(蛍の樹は大きな樹の葉に無数の蛍が集まり止まって樹全体が淡く光って見えることからこう呼ばれる。ニューギニアでは有名な現象であるが、実際に見られるのは珍しい。)

   英霊の寄り集まるやホタルの樹  (高下)

 ホテルに帰ったのは午後8時、長い1日であった。

 

第5日    6月30日(水)         サルミ 第1日

 早朝6時にホテルを出発し、5人乗りの小型飛行機2便に分乗してサルミに移動した。45分のフライトで快適であった。11時少し過ぎに第2陣も到着し、ホテルで昼食を取った後、午後1時に出発してこの日の目的地マフィンに向け出発した。

 途中、サルミの日本政府建立『戦没日本人の碑』の前で慰霊祭を行った。

   永年の願ひ叶へりサルミの地  (高山)

サルミの『日本人慰霊碑前』での慰霊祭 慰霊祭(同左)

  マフィンには2時に到着し、海岸を見晴るかす村の広場で慰霊祭を行った。ここでの慰霊祭も大勢の現地の人々に囲まれて行うことが出来た。

    夢に見しマフィンの浜辺手を合わす   (沖)

マフィンでの慰霊祭 慰霊祭を見守るマフィンの村人たち

 この後のサルミまでの帰り道が、印象深いものであった。

 ここから少し先のトル河の河口を見て帰る予定で出かけたところ、走り始めてまもなく車が思いがけず砂地にはまり容易に脱出できなくなった。やむを得ず車を降りた一行は10分ほど歩いてトル河河口に到着した。 途中、ジャングルの小道を歩く雰囲気を味わった。

  密林を分け入りながら父思う    (高山)

  腹痛をこらえて歩く英霊と      (沖)

  この小径行く当て見えず歩きしか  (荒井)

 
ジャングルの小径を歩く  

 トル河河口は広く、しばし我を忘れて眺め入った。

   トルー河ヤシの実口に叔父思う  (沖)

   酋長の目を見て握手叔父探す  (沖)

   トルー河渡る小船に英霊と    (沖)

 しかし、帰りが心配であった。車が動けるようになっただろうか。 ここから車のところまで歩いて帰るのは、歩いた距離は1km足らずであるが、最後の300mは人だけが歩く小道であり、夕暮れが近づいていて蚊の出没も懸念された。

 そこで案内の岩淵さんが急遽予定を変更してすぐ前の港でボートをチャーターしそれで帰る決断をした。幸運にも空いた船が船員3名つきでチャーターできた。水上からのトル河 河口観光サービスつきで、サルミまで帰ることができることになった。

トル河河口  

 河口は穏やかであったが、海へ出ると波が高くなった。少し怖さを感じるほどだったが、よい体験ができた。

   怒る海カヌー波間を縫いて漕ぐ   (高下)

海に出ると波が高かった サルミ港到着、ボートよさらば  右遠方に兵器の残骸が見える

 サルミ港は立派な岸壁を持った港である。ただし、港内にはいくつもの兵器の残骸が水面から顔を出していた。

 サルミでは、民宿に近いホテル ナルワツ・インダーで宿泊した。

 

第6日    7月1日(木)         サルミ 第2日

 午前中思い思いにサルミの街中を散策した後、昼からはサルミのシハラ野戦病院跡を訪ねて慰霊祭を行った。

 また、トル河方面に近いジャングルに放置された旧日本軍戦車の残骸を見てきた。

   ホスピタル跡地わからず蝉と泣く   (丸山ヒ)

   「海行かば」セミの合唱慰霊祭   (岩淵)

   炎天や大樹の下の慰霊祭      (高下)

   赤錆の戦車見ている夫と立つ    (丸山ヒ)

サルミの野戦病院跡での慰霊祭 ジャングルに放置された旧日本軍の戦車

 この日の夕食時、高下さんの発案で今回の慰霊巡拝をテーマとした句会を行うこととなり、各人思い思いの句を作って披露しあった。これまでの記事の中に配した句はすべてそのときのものである。即興的ではあるが、今回の旅のよい記念となった。

 こうして、サルミでの今回最後の夜を過した。

 

第7日    7月2日(金)          ジャヤプラへ

 10時にホテルを出発し、再度2陣に分かれて小型飛行機でジャヤプラに戻った。午後はジャヤプラの市内観光でくつろぎ最後の滞在を楽しんだ。

 

第8日    7月3日(土)          ジャカルタ経由で帰国の途へ

 朝8時ジャヤプラ発、ビアク、デンパサール経由の国内便で午後1時頃ジャカルタに到着、市内観光などでくつろいだ後、23時20分発の便で東京に向かった。

 

第9日    7月4日(日)         帰国

 朝9時前、定刻に成田空港に到着、全員の無事を喜びあって解散となった。

 

(荒井 記)

 

長野県ニューギニア会

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