第2回ニューギニア写真展(中野市)の反響

 

 2002年8月長野県中野市で開催された第2回パプアニューギニア写真展 を見ていただいた方々が、戦争についてご自分の感想や意見を発表しておられます。この中から、滝沢光樹様の手紙と娘さんのホームページ、および小林美和さんの作文を、ご紹介します。

目次

1.ご遺族からの手紙   滝沢 光樹様

   娘さんのホームページ(1) 癒えない傷あと

   娘さんのホームページ(2) 戦争を知らない
 

2.小学生の作文     小林 美和さん

   「戦争について」   小林 美和さん (長野県中野市  中野小学校4年)

 

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<ご遺族 滝沢 光樹様からの手紙>

高野様

突然のメールで申し訳ありません。
わたくし滝沢 光樹と申します。

先ほど、長野県ニューギニア会のH.P.を拝見させていただきました。

早速、私の書き込みを編集してくださりありがとうございました。

わたくしは、戦争で、兄を亡くしております。

今年、娘がお盆に来た際、初めて、重い口を開き
わたくしの負った戦争の傷を語りました。

戦争を忘れてはいけない、そして、二度と戦争を起こしてはならない…。
そんな思いを込めて、娘は、早速そのことをH.P.に載せ、少しでも多くの方に
読んでいただけたらと、言ってくれました。

文才のない娘ですので、編集等は不出来ではありますが
ご覧なっていただけたらと思い、アドレスを紹介させていただきます。。

  
  http://www5.plala.or.jp/hirari-room/izumi/7/nyuginia.htm  →  癒えない傷あと


  http://www5.plala.or.jp/hirari-room/izumi/7/nyuginia-5.htm →  戦争を知らない


今後ともよろしくお願い申しあげます。

滝沢 光樹

 


長野県ニューギニア会
       荒 井 様

娘の編集しました、「癒えない傷あと」についてご返事を戴き、 ありがとうございました。
ホームページへのリンク掲載の件ですが、 私としては一向に差支えなく、これも亡き兄への 供養になるのではないかと存じます。 高野様とご相談の上、いかようにされても結構です。
住所・メールアドレス・名前も載せてかまいません。

 昨年夏、娘に初めて戦争のこと、兄の戦死のことを話したところ あのようなタイトルで編集してくれました。 
不慣れ故、充分に役立つとは思いませんが、折に触れ時に触れ、 戦争の傷の深いことを伝えながら、加除訂正していきたいと思います。

 私は第8回の慰霊巡拝に参加しましたが、当時ご一緒していただいた 大久保・細萱・海野さん他戦友の方々も他界され、時の流れの速い ことを痛感いたします。

駄文を付け加えましたが悪しからずご了承ください。


  滝沢 光樹 上田市上塩尻22
       tel 0268-24-6129
    e-mail  takesiro@ued.janis.or.jp

 

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<中野小学校4年生  小林 美和さんの作文>

 

  「戦争について」   小林 美和さん (長野県中野市  中野小学校4年)

 

 パプアニューギニアでの戦争の写真展を見に行きました。

 五十七年前におきた第二次世界大戦の時の写真がありました。その時使われた大ほうやばらばらになった飛行機や戦争で死んでしまった人々のほねもありました。

 五十七年たった今でも、ほねが出てくるそうです。パプアニューギニアに、二十万人もの日本の兵隊さんが日本を守るために行きましたが、そのうち、生きて帰れた人が一万人くらいしかいなかったそうです。死んでしまった兵隊さんは、武器もなく、食べ物もなく、けがや病気になってもちりょうしてもらえず。暑さの中で死んでしまったそうです。家族に会いたくても会えず、とても悲しいし、つらいし、苦しいなかで死んでしまったのだと思います。日本からパプアニューギニアに、食料や薬を運ぶ船や飛行機は、途中でてきにやられてしまって、パプアニューギニアに行けなかったそうです。この船や飛行機に乗っていた人もいっしょうけんめい運んでいたのに、みんな死んでしまったそうです。

 そのころ、ジャワ島は天国、ビルマはじごく、と呼ばれていたそうです。ニューギニアは生きて帰れぬ国といわれていたそうです。

 ニューギニアの戦争に行った日本の兵隊さんは、死んでからも日本に帰れなかったそうです。その兵隊さんのほねは、今でもニューギニアにあるそうです。家族に会いたくても会えない兵隊さん。死んでも家に帰れない。家に帰れないどころか、日本にも帰れない。そんな人たちのことを考えると、戦争はやっちゃいけないと思いました。

 家に帰って「広島のピカ」という本を読みました。すると、八月六日は、広島に原子ばくだんがアメリカによって落とされた日でした。八時十五分に十四万以上もの人が命をおとしたのでした。小さな女の子が、お母さんとお父さんと一緒に楽しく食事をしていたのに、たった一つの原ばくのせいで、一しゅんのうちに何もかもなくなってしまいました。たくさんの人がひどいやけどをおったり、黒こげになって死んでしまった人もいたそうです。

 この戦争は、日本人だけじゃなくて、アメリカ人、フランス人など多くの外国の人も命を落としたのです。戦争は、人間どうしがたたかって、つみのない多くの人が死んでしまったり、けがをしたり、悲しい思いをしたりするものだと思いました。

 「千羽づるの願い」という広島の本も読みました。原ばくが落ちたとき、けが一つなかった女の子が、十年後の十二才になったとき、急に病気のしょうじょうがあらわれて入院しなければならなくなりました。その子は、病気が治るように、毎日、つるをおり続けました。つるが九六四羽になったとき、とうとう死んでしまったという悲しい話です。広島に原ばくの子のぞうとして、今も残っているそうです。その子は、もっともっと生きて楽しいことや勉強やいろいろなことしたかったんだろうなと思いました。

 戦争のことは、今まで一度も考えたことなんかなかったけど、戦争の本や写真や話を見たり聞いたりすると、今のわたしの生活は、食べるものもあるし、薬もあるし、具合が悪くなれば、すぐに医者に行けるし、本当に幸せです。戦争は、人間が始めなければ多くの人が命を落とすことはないと思います。自分にたった一つしかない命は、動物も人間も虫も同じです。今も世界のあちこちで争いが行われているそうです。戦争でたくさんの人がなくなった事や悲しい思いをした人がいる事は、わすれてはいけないと思います。地球の人たちが、みんな仲よくくらせるといいなと思います。

     (長野県国語教育学会編 「信濃こども文集」 113-114 ページ)

   (注)この作文は、著作権者である「信濃こども文集」編集委員会の承認のもとに掲載しております。

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長野県ニューギニア会

 

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